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4月25日音楽史講義2「ルネサンス音楽の曙」(東京)
今年度から新しいテキストを読み始めます。
新しいテキストはこちらThe Rise of European Music, 1380-1500)です。
ちなみに昨年までのテキストはこちらで、その前の講読テキストはこちらです。


The Rise of European Music, 1380-1500 について

1380年から1500年の120年間に焦点を絞って、中世後期からルネサンス初期の音楽を詳細かつ包括的に解説した本。著者は音楽学者のReinhard Strohm氏(1942~)。初版1993年発行。ペーパーバック版2005年発行。

ポリフォニーに代表される音楽的遺産とそれらを生んだ当時の文化的・社会的変化を、時系列、地理的な対比を交えて解説している。各章で、著者ならではの新しい視点を発見できる。音楽家については、マショーの後継者たちからジョスカンとその同時代に活躍した作曲家を紹介。さらにPart Ⅲでは、時系列、地理的な分類を離れて、ヨーロッパ全体に「共通」して見られた音楽的実践や伝統を分析している。

■本日の講読は1~18ページまで。次回は19ページから。

■講義の内容

Introduction 1~10ページ

現代人は「歴史上の進歩」という概念に対して懐疑的だが、音楽に限って言えば、社会(と人々)は「音楽の進歩」による影響を何らかの形で受け続け、その過程で深刻な痛手からさえも回復してきた。

古いものと新しいもののどちらを尊ぶかという問題は普遍的だ。(彼にとっての)最新流行の音楽しか認めなかったJohannes Tinctoris(1435ca-1511)とアヴァンギャルドが大嫌いだったFrancois Joseph Fetis(1784-1871)が共に北ベルギーのある地方の出身で、15世紀のヨーロッパのポリフォニー音楽を同じように高く評価したことは興味深い。

中世からルネサンスへの移行期に、音楽は初めて人文主義的な表現手段になり、「世界の言語」になった。中世の音楽も構造的には非常に複雑で高度ではあったが、それらは芸術というよりも、むしろ「実践上のノウハウ」に近いものだった。ルネサンスを迎えて人々は、音楽を通じて芸術的な価値を追求する喜びを知ったのである。

同時に音楽は「個人のもの」となり、「作品」としてのポリフォニーが誕生した。その音楽の持つ新しさは人々を刺激し、傑出した才能が多くの輝かしい作品を残した。中世後期に物質的な状況が大きく進歩した(楽器や楽譜、書物など)ことも音楽の発展に寄与していた。

現代人はいろいろな音楽を好み、わたしたちの生活は音楽と密接に結びついている。実はこの状況はけっして自然に生まれたものではない。音楽を個別化し、私物化するという15世紀のヨーロッパでの「進歩」があったからこそ、実現したものなのである。

Part Ⅰ The Age of the Great Schism 11~18ページ

"Great Schism"とは、ローマカトリック教会の教皇継承を巡る大分裂が起きた40年間(1378-1417)を指す。この時期、AvignonとRomeに2人、時には3人の教皇継承権主張者がいた。しかしこの教会を二分する大事件は、高い次元で見れば「ものごとを統一する要因」にもなったとも言える。「分裂によってもたらされる統一」が本章のテーマである。

大分裂は当時の音楽に大きな影響を与えた。その影響は、政治的、精神的、経済的(金銭的支援)な側面に分けて考えることができる。音楽の政治的な利用は以前から行われており、フォーベル物語による社会風刺やテンプル騎士団を批判する音楽などはその例である。

大分裂時代には、さまざまな立場の教会や宮廷の重要人物を擁護するテキストを歌詞に持つ曲が作られ、演奏された。たとえばPhilippe de Vitryは、クレメンス6世のためのmotetusを作っている。ただしこうした音楽が大勢の前で演奏されることはほとんどなかった。

対立状態が長引くと人々は不安を募らせ、和平的解決を待ち望む気持ちを音楽に込めて表現するようになった。分裂の終結を祈るミサ用トロープスや、pax(平和)への希求を旋律的に表現したと思われる曲が作られた。

(CT)
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by fonsfloris-k | 2014-04-25 10:00 | 講座レポート
9月14日音楽史講読「ノートルダムの音楽」(東京)
主な項目
1 講読:P281~294(第5部レパートリー、作曲家、演奏 第8章 作曲家たち)
(1) 第3節「Magister Leoninusレオニヌス」P281
(2) 第4節「Magister Perotinus Mgnusペロティヌス」P288
2 CD鑑賞
  ・昇階唱Viderunt omnes の2声のオルガヌム(レオニヌス作)
  ・P289の譜例(Example34)を2種類の演奏で。
3 配布プリント:1枚
  12・13世紀のパリの教会・修道院の所在地(今谷和徳・井上さつき著
 「フランス音楽史」春秋社2010年版からのコピー)
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追記
本日のお菓子は、白玉ぜんざい。台風接近の影響で蒸し暑い中、少し冷やした
ぜんざいの甘さにほっと一息。毎回ありがとうございます。
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講読概要
第5部「レパートリー、作曲家たち、演奏」 第8章 「作曲家たち」P281~294
(1) 第3節「Magister Leoninus レオニヌス大先生」P281
・レオニヌスとペロティヌスは、大変有名な作曲家であるが、我々が彼らの
 音楽活動を知ることができるは、13世紀パリに学生として滞在した英国人
(無名IVと呼ばれている。P236参照。)が書いた論文中の記述よるところが
 ほとんどである。
・無名IVによれば、レオニヌスは最高のオルガヌム歌手であり、ミサ及び典礼で
 使用されるオルガヌム大全を編纂した。このオルガヌム集はペロティヌスが
 改訂を行うまで使用された。
・無名IVの記述によると、オルガヌム大全のうちアレルヤ唱とレスポンソリウム
 の2声のオルガヌムは、レオニヌスによって作曲されたものである。
・フランス国立中央文書館に保管されている教会関係の文書によれば、レオニヌス
 は詩人と記録されている。
・教会関係文書では、サン・ブノワ教会傘下のセーヌ左岸にある教会やサン・
 ブノワ教会において、寄進されたブドウ園や邸宅の受領者としてレオニヌスの
 名前が記録されている。これらの記述からは、1179年までには修士号を
 おそらくパリ大学から授与されたことが明らかとなっている。
・その後、サン・ブノワ教会での仕事に従事し、少なくとも1192までには
 司祭に叙階されている。
・1180年代から90年代にかけては、ノートルダムに関連した事業において
 名前が残されており、1190年代までにはノートルダムの聖堂参事会員の
 代表として活動していた。没年は1201年と考えられている。
・レオニヌウスの詩については7種類の書物が現存しているが、フランス国立
 図書館所蔵のものには、旧約聖書を題材としたもの、のちの法王アレクサン
 ドル3世や国王ルイ7世への御礼を表したものや霊的な内容の詩が含まれて
 おり最も重要とされている。旧約聖書を題材とした「世界の創生からの聖なる
 歴史」は代表作。
・レオニヌス生涯のまとめ:
おそらく1135年頃パリに生まれ、ノートルダムの教会学校で教育を受け、
その後、芸術及び神学の修士号を取得。まずサン・ブノワ傘下のセーヌ左岸の
教会参事会員として勤務し、1180年までにはノートルダムの参事会員の最上
級ポストへ就任した。彼の出自によるものかあるいは彼自身の聡明さによるもの
か、法王、王、司教たちの寵愛を瞬く間に受けた。詩人としても重要な作品を残
しており、「世界の創生からの聖なる歴史」は多くの複写が行われ、死後も讃え
られた。典礼をより高めるためのオルガヌムの作者としては、後世までよく知ら
れることとなった。無名IVは作曲家レオニヌスがノートルダムに関係していたこ
とを示唆しており、オルガヌム大全の典礼での使用がこれを裏付けている。また
レオニヌスは教会の記録において略称で名前が記されている唯一の聖職者であっ
た。彼は1190年代を通じ、記録から消える1201年まで教会での仕事に従
事した。

(2)  第4節「Magister Perotinus Magnus (Petrus Succentor?) ペロティヌス
   大先生(ペトル スサクセンター)」
・PetrusはPerotinusの短縮形、当時イルドフランスではもっとも一般的な名前。
・無名VIはペロティヌスのことを偉大で最もすぐれた歌(ポリフォニー)の
 作曲家と呼んでいる。
・代表作として、2つの4声オルガヌムVideruntとSederunt、2つの3声オルガ
 ヌムAlleluia Posui adiutoriumとAlleluia Nativitas、そして3つの
 コンドゥクトゥス(行列歌)Salvatoris hodie、Dum sigillum、Beata
 visceraの7曲がある。
・歌手が即興演奏を行うのが普通であったのに対して、ペロティヌスは、音楽を
 創るというまったく異なるアプローチをとった西洋音楽史において最初の作曲
 家である。また4声の音楽を作曲した最初の作曲家である。
・曲の特徴としては、長いメリスマの代わりに、休符等で区切られた比較的短め
 の多声によるフレーズで曲を構築した点があげられる。
・文書では、教会のサクセンターとして1207年から1238年の没年あたり
 まで記録が残されている。
・文書では、教会の行事や寄進等に関する業務記録中に名前が残されている。
・文書記録をまとめると、聖職者としてはまず、パリ司教の補助司祭を務め、
 そのうちに、彼の実務能力と音楽才能がスリーの司教オドの目にとまり、
 1198年前にはノートルダムの参事会員へ昇進した。その後オドが亡く
 なる1208年より前の1207年以前にはサクセンターに選出されたと
 推察される。

次回は第8章「作曲家」 第5節 「フィリップドゥシャンスリエ(司教区文書
局長(証書担当司祭)フィリップ」P294~です。
以上
(A.K.)
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by fonsfloris-k | 2013-09-14 10:10 | 講座レポート
8月3日音楽史講読「ノートルダムの音楽」 (東京)
第8章 作曲家たち(Composers)
前半(273~281ページ)

中世のヨーロッパには、作曲だけを専門に行う「作曲家」は存在しなかった。したがって、たとえば典礼で歌われる多声曲は、音楽理論で認められた一定のルールに従って聖職者によって即興的に作られ、演奏されていた。作曲と演奏はほぼ一体であり、音楽の創造に携わる人々はみな、演奏者兼作曲者だったのである。

ところが12世紀になって記譜法が発達すると、リズムとピッチを視覚的に表現することが可能になり、演奏の現場以外でも、理論に基づいて作曲できるようになった(注1)。その結果、3声や4声の多声曲のリズムが急速に複雑になり、同時に、1つの曲を1人で作曲して「自分の作品だ」と主張する作曲家が現われるようになる。

(注1)花井先生の解説: 記譜法が発達したからといって、何もないところから音楽を創造できたとは思えない。むしろ経験が定着して後の時代まで残った、具体的には、即興で演奏されていた音楽が楽譜として定着したという見方をすべきだろう。逆に言えば、残されている作品が当時の音楽のすべてではない。消えていった音楽は、残された音楽の何百倍、何千倍もあったのではないか。楽譜として残っている作品は「一番良いものだから残された」と考えることもできる。

Anonymous(匿名)によらない多声曲が最初に登場した写本は、カリクストゥス写本(Codex Calixtinus)である。この写本はスペインのサンチアゴ・デ・コンポステラの聖ヤコブ教会で使用されたものだが、収められている音楽作品は中央フランスと北フランスで作られたものであり、それらの作り手も同じくフランス出身の、社会的な地位や教養の高い教会関係者だった。

実のところ、12~13世紀の作曲家は多芸多才で、音楽以外にも天文学、修辞学、数学などの非常に幅広い分野の知識や職業的能力を併せ持つ人々だった。それが時代を下ってルネサンス期になると、より現代の意味に近い、作曲の専門家たちに取って代わられるようになる。そのような時代へと移行する過渡期の作曲家を何人か紹介しよう。

Adam Precentor, Adam of St. Victor
アダム・プレセントール、あるいはサンビクトールのアダム


12世紀のパリの音楽家については、誤った情報が多い。セクエンツィア(続唱。典礼で昇階唱後、福音書朗読の前に時々歌われる聖歌)の作曲者として有名な「サンビクトールのアダム」は、従来はアダム・ブリトという人物だと思われていた。しかしその後の研究で、ノートルダム大聖堂のプレセントール(=カントール)だった別の同名の人物だということがわかった。混乱の理由は、パリの郊外にあったサンビクトール修道院の関係者が、著名な詩人や音楽家と同修道院の密接な関係を過度に誇示する記述(その一部は誤り)を残したためである。

サンビクトール修道院は、ノートルダム大聖堂の副司教によって、1108年に設立されたアウグストゥス派の修道院である。当時は大聖堂での喧噪や政争に疲れた聖職者たちが、心を休めるために訪れる「避難所」だった。多くの人が集まるようになった同修道院は、宗教活動や研究、教育の中心地として次第に発展していった。

ノートルダムのカントールだったアダムは、サンビクトール修道院の設立に尽力し、その後同修道院での重要な行事を記念するセクエンツィアを作曲した。しかし最新の研究では、アダムの作品の大半は、サンビクトールではなくノートルダムのために作られたとされている。アダムは、古い聖歌に新しい歌詞を付けたり、新しい旋律を加えたりして、作曲した。彼の代表作である Gaude prole Grecia はノートルダムでの重要な行事で年に3回歌われていた。

Magister Albertus Stampensis: Precentor Parisiensis
アルベルトゥス・スタンパンシス大先生(パリのプレセントール)


カリクストゥス写本には、聖ヤコブを讃える Congaudeant catholici という3声のコンドゥクトゥス(オルガヌムの一種)が収められており、作曲者は「パリのアルベルトゥス大先生」と記されている。Congaudeant catholici がパリのノートルダムと関わりを持つ曲かどうかはわかっていないが、フランスで作られた曲であることはわかっている。サンチアゴデコンポステラへの巡礼の出発点はパリのノートルダム大聖堂であり、当時、両者の間にはつながりがあった。

「パリのアルベルトゥス大先生」は、ノートルダムの参事会員でカントールだったアルベルトゥス・スタンパンシスだと言われている。アルベルトゥスは重要な典礼を取り仕切るなど、ノートルダムのカントールとして音楽的能力を存分に発揮して活躍した。しかし、アダムやアルベルトゥス以降のカントールは、徐々に、音楽ではなく、教会の運営に携わるようになる。代わって典礼の音楽を担当したのはスブカントール(=副カントール)だった。

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次回の講座は281ページのレオニウスからです。

講座のなかで、3つの演奏者(団体)による、アルベルトゥスの Congaudeant catholici の演奏を聴きました。演奏者によって、同じ曲とは思えないほどリズムやテンポが大きく違っていて驚きました。

067.gif本日のお菓子は、特別な梅の実で作られた梅ゼリー016.gif
食べるのに夢中で写真を撮り忘れましたが、とてもさわやかな美味しいゼリーでした。

(CT)
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by fonsfloris-k | 2013-08-03 10:00 | 講座レポート
6月15日音楽史講読「ノートルダムの音楽」 (東京)
主な項目
1 前回の復習(レオニヌスのオルガヌム大全ついての著者の仮設)
2 講読:P258~272(第5部レパートリー、作曲家、演奏 第7章 ゴシック様式の多声音楽)
(1) 第3節「ノートルダムの典礼におけるオルガヌム使用の広がり」P258
(2) 第4節「オルガヌム大全のパリ以外の地域への普及:一つの仮説」P267
3 CD鑑賞
  ・昇階唱Viderunt omnes の4声及び2声のオルガヌム
  ・復活祭の聖務日課Et valde. Et respicientes のオルガヌム
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追記
本日のお菓子は、手作りのブルーベリーチーズケーキ(ちなみに前回は手作り生チョコ)。
甘さ控えめでおいしかったです。毎回楽しみになってきました(笑)。講座後、
カリグラフィー講師をされている受講生の方から楽譜等の写本にみられる文字の
書き方紹介とカリグラフィーのデモンストレーションがありました。
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概要
講読中の章: 第5部「レパートリー、作曲家、演奏」 第7章 「ゴシック様式の多声音楽」

1 前回復習
現存する重要な3つのオルガヌムの写本(フィレンツェにあるFとして知られるもの、ウォルフェンビュッテルにある2種類W1及びW2)をもとに、著者が提案するレオニヌスのオルガヌム大全(現存しない)についての仮説は下記のとおり。
・オルガヌム大全はノートルダムのためだけに作曲された。
・F写本がオルガヌム大全をもっとも完全な形で残している。
・その後各地の典礼に合わせ、曲の削除追加が行われた(W1とW2)。
・各地でオルガヌムが編纂されたとするフスマンの仮説は間違い。

2 講読:P258~272
(1) 第3節「ノートルダムの典礼におけるオルガヌム使用の広がり」P258
・表3「F写本に記録されているオルガヌム大全の典礼での使用例」の主な項目の訳と解説。表中Oは聖務日課Officium、MはミサMassを表す。)
・オルガヌムは大祝日での複唱duplexや準複唱semiduplexにおいて主に歌われた。
・オルガヌムの歌い手(オルガニスタ)への支払い額の記録があり、演奏にはスポンサーが必要だったようである。また寄進により祝日がsemiduplexへの格上げにつながった記録もある。
・大祝日には大勢の市民が教会に来てオルガヌムを聴いていたようで、聖母被昇天の祝日の前日には警備を強化した記録が残されている。

(2)  第4節「オルガヌム大全のパリ以外の地域への普及:一つの仮説」
・当時のパリに神学を学びにきたヨーロッパ中の学生たちが、オルガヌムを写譜し持ち帰った。
・スコットランド聖アンドリュー教会のW1のように、その教会の典礼に合わせて追加変更が行われているものもある。
・グレゴリオ聖歌の中では歴史的に一番新しいアレルヤ唱は地域差が大きく、FにあったものがW1やW2ではなくなっており、これも使用する地域の典礼に合わせて削除や加筆がなされた結果と思われる。
・無名IV(13世紀パリに学生として滞在した英国人でオルガヌムの理論書を残す。)の記述によると、レオニヌスがオルガヌム大全をつくり、それはペロティヌスの時代まで使用された。ペロティヌスは簡潔に短くしクラウズラ(リズムが規定された部分)をさらに良いものした。
・無名IVの記述に従えば、比較的自由な動きが多い2声のオルガヌムが削除され、よりリズムが規定され、さらに3声や4声へと複雑化していく過程はノートルダムにおいてペロティヌスらによってはじまったといえる。

次回は第8章「作曲家」P273~です。
以上
(A.K.)

★写真(↓)は前回の講座のときのお菓子です
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by fonsfloris-k | 2013-06-15 10:00 | 講座レポート
4月13日音楽史講読「ノートルダムの音楽」 (東京)
7・ゴシックポリフォニー(236頁より258頁23行まで。)

本章ではゴシック時代のパリの興隆に伴う音楽的興隆、その最大の遺産たる
パリのポリフォ二ー~オルガヌム~について語られている。
その経緯と実像は当時のいささか破天荒な宗教的風習、「愚者のミサ」に
対するオド司教の批判文によって図らずも明らかにされている。
またその中では晩課にレスポンソリウムを唱えていた事など今日では失われた
風習を伺わせる記述もあり興味深い。
記述の後半では、オルガヌム大全の概要に加え、フスマンによる旧来の定説に
対する批判が詳細に記述されているが、時間の都合で省略された。

(Y.I.)
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by fonsfloris-k | 2013-04-13 10:01 | 講座レポート
2月2日音楽史講読「ノートルダムの音楽」 (東京)
The Renaissance king : FrancisⅠ  ルネサンスの王:フランソワ1世

p,217~ 
王室につながる諸侯たちはいつもガリア教会(ノートルダム)の一流のパトロンであった。とはいえ、大聖堂への彼らの寄付を比較してみると、大修道院や聖堂参事会教会を大きく超えることはなかった。彼らの贈り物はしばしば芸術的、音楽的、または土地やお金に加え精神的価値の形式を取ることもあった。豪華な時禱書で有名なベリー公ジャン(=1世、Duke John of Berry)は恐らく中世後期における芸術の最も著名なパトロンであるが、例えばノートルダムに使徒フィリポの頭を含む多くの聖遺物を入れる聖櫃を寄贈した。
1400年の記録に拠れば、ベリー公は大聖堂のオルガン改装費用の寄付を依頼され、またオルガン製作家のフレデリク・シャンバンツFedericus Schambantzを教会に仕えさせるため、6年間にわたりスポンサーとなった。そのすぐ後の1410年、ジャンの甥ブルゴーニュ公ジャン(1世、=無怖公Jhon the Fearless)は2,500リーブルをノートルダムに寄付したが、それはブルゴーニュ公家の先祖の(供養の)ためであった。
ルイ11世(在位1461~76)はその治世の間に、ノートルダムに多大な善行を積んだ。つまり、父(シャルル7世)が約束していた600リーブルに加え、自身の分として1,000リーブルを、また「ガブリエル」の銘がついた北塔の大鐘を作り直す材料と費用を寄付した。(→2013年、フランス革命以降初めて鐘が10個揃うこととなった。)ほかにも「聖アンドレアの腕」を安置するための新しい聖遺物入れを作るために502エキュを寄付した。このような莫大な寄付は無条件でなされたのではなかった。実際、それらの惜しみない寄付は大聖堂と宮廷にとって、お互いのより大きな見返りの言わば、交換条件であった。多くの場合、教会への寄付の最大の意味は、現世だけでなく来世についてもその奉仕の対価としてのものであった。宗教改革以前においてパリの大聖堂との関わりを持ったフランスのすべての君主たちの中でも、フランソワ1世(在位1515~47年)は宮廷と大聖堂との関わりにおいて、最も精力的に相互関係を築いた典型的な人物であった。

おそらく、フランソワ1世はフランス史上、最も傑出した君主の一人であり、その治世は二つの輝かしい文化、すなわちフランス・ゴシックとイタリア・ルネサンスの混在した時代であった。フランソワ1世はノートルダムの建物の外見自体にも影響を与え、また教会の組織そのものにも関与した。彼は即位して間もない若い頃、レオナルド・ダ・ヴィンチや画家のベンヴェヌート・チェリーニBenvenuto Celliniを宮廷に招聘した。またラブレーRabelaisのパトロンとなり、コレージュ・ド・フランスを設立(設立当初はコレージュ・ド・ロワイヤルCollége de Royale)した。彼はトルネをかけて英国王ヘンリー8世と戦い、また(選挙には敗れたが)神聖ローマ皇帝にも立候補した。イタリアに2回侵攻、新大陸へフランスの最初の探検隊を送った。フランソワ1世の精力的な活動と国王という地位は西ヨーロッパ全体に影響を及ぼし、各国君主はこれを念頭に置きながら外交戦略を考えることになる。その結果、フランソワ1世の家族の儀式だけでなく、主だったヨーロッパ王室の儀式は首都パリの大聖堂で同盟国・敵国を問わず、様々な儀式(外交儀礼)が行われた。フランス王室関係では、先王ルイ12世の葬儀(1515)、フランソワ1世の最初の妻クロード※1の葬儀(1524)、フランソワの母ルイーズ・ド・サヴォアの葬儀(1531)などである。もっとも遺体は伝統に従ってサン・ドニに運ばれた。対外的には、1537年、スコットランド国王ジェームス5世を迎え※2、また神聖ローマ皇帝カール5世と一緒にミサを行った。また彼は敵であった神聖ローマ皇帝カール5世が1519年に、英国王ヘンリー8世が1547年に、それぞれ亡くなった時に記念のミサを行った。
※1 クロード・ド・フランスClaude de France(1499 – 1524)ルイ12世の王女。
※2 この年、フランソワ1世の王女マドレーヌMadeleine of Valoisとの結婚が大聖堂で行われた。

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上記は本講座レポートの最初の部分だけです。全文はPDF(↓)でお読みください。
http://www.fonsfloris.com/k/fonsfloris_notre_dame20130202.pdf
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by fonsfloris-k | 2013-02-02 10:00 | 講座レポート
12月1日音楽史講読「ノートルダムの音楽」 (東京)
202頁~217頁。
ノートルダムで行われたイギリス王ヘンリー6世の戴冠の模様について述べられている。これは百年戦争のさなかの出来事であるが、この時代は様々な人物が綺羅星の如く輩出し、歴史家、詩人を魅了して止まない。
ここではまず、自身の夫人(チョーサーの孫でもある)を巡りブルゴーニュ公フィリップの引き起こした色恋沙汰で傷ついたサフォーク伯ウィリアムの心を癒すためジル・バンショワがロンドーを書いた事があげられている。
齢十歳の幼君ヘンリー6世のノートルダムにおける戴冠は、百年戦争のさなかオルレアンの囲みを破りランスで戴冠したシャルル7世に対抗の意図もあり行われた。イギリスは二十五人のラッパ手とニ、三千の軍隊を伴い国威発揚に努めたが、当時パリ・ノートルダムにはなかった(フランス王はランスで戴冠するのが慣例)国王戴冠のための次第書(次に使ったのはナポレオンだった)とそれに伴う音楽をもたらした以外、結局何も遺さなかった。

戴冠式の際に振る舞われた英国側による宴席料理は、パリ市民には大変不評であった。 尚、戴冠の際、当時5名の朝課歌手しか擁していなかった(貧相な)ノートルダムの聖歌隊によって歌われた単旋律聖歌のレスポンソリウムEcce mitto angelumを試唱し、ジョン・ダンスタブル(フランスにおける英国の摂政ベッドフォード公に仕えていた)によるキリエを試聴した。戴冠式のミサで、26名からなる英国の伝統ある聖歌隊によって演奏されたと考えられるのは、ダンスタブルの三位一体トロープス付のミサDa gaudiorum premiaである。

次回はルネサンス時代の国王フランソワ1世との関わり。

(YI)
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by fonsfloris-k | 2012-12-03 22:34 | 講座レポート
10月13日音楽史講読「ノートルダムの音楽」 (東京)
196ページ
教会と宮廷

中世フランスの修道院や大聖堂、教会は、王家や領主あるいはギルドや貴族の支援を受けて建てられ、維持されるのが常だったが、パリのノートルダムだけは、上級聖職者たちからの寄進によって建設され、維持されていた。ただし、ノートルダムが歴代の君主からの庇護を受けなかったわけではなく、6世紀から12世紀に発行された勅書を見ると、メロビング、カロリング、カペティアンの各王朝の君主たちがノートルダムを手厚く保護していたことがわかる。これはおそらくノートルダムが、パリで最初の教会であり、大聖堂であったためだろう。

興味深いのは、君主たちがノートルダムの司教や参事会員に与えた土地や貴金属、特権が、教会の建造物の建築や維持のために使われたわけではなく、王家の家族の安息を祈る随意ミサを行うために使われた点である。また王家はその影響力を使って、親族をノートルダムの教職者の地位に就かせたりもしていた。

ノートルダムと王家のつながりは、金銭的援助だけにあったのではない。王自身もノートルダムの教区民の1人であり、待降節の最初の日曜日などの重要な祝日には、王自身がノートルダムを訪問してミサに参列した。王は、自身の音楽隊を引き連れてノートルダムの聖域に入ることで、キリスト教の王としてのイメージを民や臣下に植え付けていた。つまり、教会と王家との関係は非常に密接であり、音楽と典礼における両者の関係性には、自己の利益のために相手を利用する要素や象徴的な要素があったのである。

カロリング朝のLaudes regiae(王を讃える儀式)

Laudes regiaeは、王を讃え、神聖化するために行われた連祷に似た短い儀式で、一連の音楽的な唱和を伴い、その起源は8世紀のフランク王国にまで遡る。古代ローマのvitaや初期キリスト時代のExaudi Christeなど多様な要素が含まれ、そこに聖人への連騰が織り込まれた。8~15世紀にかけて作られた30以上の写本に王を讃える讃歌が記され、そのうち12の写本には楽譜が含まれていることから、カロリング朝の大聖堂で行われる王家と教会の様々な儀式において、讃歌が歌われていたことがわかる。

パリでLaudes regiaeが歌われる場合、教会にとって重要な人物を祝う唱歌と現世の重要人物を祝う唱歌が連続する構成になっていた。Laudes regiaeの目的は、キリストの勝利と王の勝利を同時に歌い上げることで、天と地の支配を同一化し、王を神格化することにあったと思われる。

ノートルダムで歌われたLaudes regiaeは、朗唱音が「g」であること、インチウムがなかったこと、4度の音程を枠組みとする旋律の展開があったことなどから、ローマ的ではない特徴を持っていた。Laudes regiaeは劇的で圧倒的な儀式だったが、それは音楽に依るのではなく、儀式に王が参列し、唱えられる言葉に象徴的な意味があり、さらに演奏方法(男声と子どもの高声をミックスし、ポリフォニーを付加した)に依るところが大きかった。

13世紀初めには、Laudes regiaeにポリフォニーが一般的に付加されるようになった。復活祭の昇階唱Haec diesの歌詞を基に作られたモテットDominus glorie / Dominoは、復活祭のどのミサで歌われたかは不明だが、ノートルダムにおいても、Laudes regiaeの前、集会祈願の直後の、参事会員が内陣の聖職者席から降りるときに歌われた。後半では王を讃える歌詞が始まるため、集会祈願からLaudes regiaeへと儀式のテーマをスムーズにつなぐ役割を果たしていたと思われる。

「Laudes regiaeはパリのみで"Triumphus"と呼ばれていた」と複数の文献が述べていることから、Dominus glorie / Dominoの歌詞の最後に「勝利者」を意味する言葉があるのは、この曲がノートルダムと直接的な関わりがあったことを示す証拠だと思われる。

次回は206ページの「ヘンリー6世の戴冠」から。

(C.T.)
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by fonsfloris-k | 2012-10-13 10:00 | 講座レポート
8月11日音楽史講読「ノートルダムの音楽」 (東京)
The choirboys 少年聖歌隊

Administration 運営 p.169~
※マッシオン通り8番地に少年聖歌隊の居住区がある。建物自体は19世紀のものであろうが、現在でも使われている。(Googleの画像で確認)
(ジャン・ジェルソンJean Gersonの書いた少年聖歌隊の規律を念頭に、前回の続き)
1435年、少年たちを世俗の悪い影響から切り離し、教育を施すためのメトリーズmaîtrise とよばれる少年聖歌隊の共同専用居住スペースが設けられた。
1455年3月、前参事会員ロジェの館を使うようになった。参事会の館にも近いので、監督が出来ることや、夜の聖務日課、朝課にも通いやすいという利点があった。中は教室と寝室、食堂、聖堂、リハーサル室などで構成されていた。
メトリーズに受け入れられる少年たちは様々な階層の出身者で構成されていた。貴族の3,4番目の子弟、孤児もいた。だが大部分は中産階級、商人や職人の子弟であった。また殆どの少年はパリ市内で生まれた。他のカテドラルのように地方まで声の良い少年を探す必要がなかった。
少年は通常8歳で大聖堂に入る。受け入れに際しては、正当な生まれである(庶子ではない)こと、宗教的にふさわしいこと、音楽的素養があり、良い声を持っていることなどが求められた。また入るにあたり歌のオーディションが行われた。参事会はその少年にお金と時間を投資するので、一度入門すると親元へは帰さず6~10年の訓練を受けた。
16世紀の後半からカストラートが流行していた。教皇庁やフランスの宮廷では受け入れられていたが、大聖堂では禁じられており、少年をメトリーズに受け入れる際には、そのような特徴がないか身体検査を行った。入門すると下級聖職者の位を授かりトンスーラ(剃髪)をする。また冬のための帽子や僧服が支給された。また望むなら一生ここで暮らした。

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by fonsfloris-k | 2012-08-11 10:00 | 講座レポート
5月12日 音楽史講読「ノートルダムの音楽」 (東京)
テキストの132頁3行目から153頁の最後までを読んだ。なお、この講義に際し、C.T.さんから「中世キリスト教典礼用語集」が配布された(とても役に立ちます)。以下、講義の要約を掲げる。

第2部
「信心ミサ」(続き)
・ 個人やグループの要望に応じて、主祭壇ではなく、脇の礼拝堂で、教会暦とは関係なく、信心ミサが行われた。死者、聖母、三位一体、聖人などの目的は様々。
・ 14世紀、ノータルダムでは建築が盛んになり、15世紀にはとりなしの祈りが流行する。1529年までには、脇の礼拝堂が42にもなり、司祭は126人もいた。祭壇付きの司祭は終身雇用だが、朝課の歌手は1年ごとの契約。
・ 信心ミサのほとんどは、言葉で唱えるだけだが、歌手が雇われるケースも。1453年、司教ドニ・ムーランは聖ドニと聖ジョルジュのために8人の少年と一人のマスターを雇ってミサを行った。
・ なかでも、フランスの財務総監や司教が輩出したジュヴネル・デ・ジュルザン兄弟のケースは特筆に値する。脇の礼拝堂に家族専用の墓を作り、両親の肖像画もかかげ、毎日歌なしのミサを行った。また、例外的に主祭壇で父母のためのミサも行わせた。さすがに、ステンドグラスにする請願は却下されたが、その家族の肖像画(134頁の図を参照)はいまでもルーヴル美術館で見る事ができる。
「兄弟団の典礼」
・ お金の無い人たちは、個人では出来ないので、テーマを決めて「信心会」を組織して、典礼を行った。この信心会は古い時代からあり、9~10世紀にはその存在を確認できる。12使徒、麦角中毒症予防、朝課のために起きるパリの聖母などいった兄弟団まである。同業者組合が作るケースも。商業組合、熟練の靴職人、床屋、射手など。自分たちの守護聖人のときには、荘厳ミサをあげた。ちなみにペスト防止の守護聖人は聖ロック。
・ 136頁は突然死予防のためのミサの楽譜。15世紀のグレゴリオ聖歌の楽譜に特徴的である遠くから見ても見やすい書き方。第3旋法で書かれている。137頁は計量記譜法でかかれた挿入句(トロープス)付きのサンクトゥス。これらは、大聖堂正規の聖歌集には出てこないが、フランス各地では知られていた。兄弟団などの典礼が参事会からは独立して独自の典礼を行っていたことがわかる。
・ 1474年、ろうそく職人の同業者組合の兄弟団は、ノートルダムの大聖堂の外にある聖ジャン・ル・ロンの礼拝堂(洗礼用、5頁の地図参照)を本拠地にしたいと請願。その時の文書(138頁に引用)によると、「歌手たちにはノートルダムの正規のメンバーもいるので、空き時間にやるように」、「入り口の机の上にオルガンをおいた」、「主なミサでは、助祭、副助祭、二人の歌手、オルガニストによる歌ミサが行われた」、「レクイエムは歌なしだが、喜ばしい典礼では、オルガンが使われた」などのことがわかる。
・ 兄弟団はヨーロッパ中に広がった。(講師補:なかでも、ヒエロニムス・ボスの祭壇画を保有していたことでも有名なオランダのデン・ボスの兄弟団礼拝堂は、大聖堂本体に匹敵する壮麗さを誇る。欧州各地の有力貴族をメンバーに持ち、立派なコワイヤーブックも残っている。そのような者に比べると)、パリの兄弟団の典礼は、参事会の保守的な考え方のせいもあり、質素であった。

第3部 驚異の機械
第4章 オルガン
・ オルガンの語源はギリシャ語、道具、臓器などの意味。中世ラテン語でオルガヌム(複数形  オルガーナ)ほど多義に富む言葉はない。機械仕掛けのもの、人の声、声楽作品、典礼などの意味もあり、楽器としてのオルガンという意味はそのひとつにすぎない。
・ オルガンがいつ教会に導入されたのか?語義の多義性による誤解も多い。15世紀より前、オルガニスタは歌手を指した。即興演奏をする人、対旋律を歌える人のことだった。オルガン奏者は、オルガニザトール

・ 14世紀以前にはノートルダムにはオルガンは入っていない。フランスでは、ストラスブールとランスだけ。
・ ノートルダムの場合、建築の進捗状況から導入の時期を類推できる。オルガンの場所は、内陣やジュベではなく、身廊。13世紀後半には完成しているが、直ちに改築が始まったので、14世紀以前にはオルガンは設置できなかったはず。14世紀になると、オルガニストへの謝礼の支払いやオルガニストへの演奏の合図となる鐘を内陣に設置した支払いの記録があらわれる。
・ 当時のオルガニストは楽譜を見ないで弾く、即興が原則。
・ オルガンの擱かれた場所は身廊、つまり民衆のいるところ。
・ 1401年、2代目のオルガンが、正面玄関入ってすぐ上の西壁にステンドグラスをつぶして設置される。これは今のオルガンと同じ位置。
・ オルガンビルダーはみなフランドル人。初期のオルガニスト(148頁に歴代のオルガニストの一覧あり)もフランドル人。
・ この時代のオルガンはストップで音色を変える機構はなく、ブロックヴェルク型のオルガン。音は一種類のみ。ただし、一つの鍵にいろいろなパイプ(オクターブや倍音など)が組み合わさって荘厳な音に。鍵盤は30あり、低音は5本、高音は10本のオープンフルー管を使用。6~7人が大きな輪っかをまわして風を供給。音色の変化はつけられないが、輝くような大きな音が出たはず。
・ オルガンの設置には時間がかかった。おおよその完成を見たのは14年後の1415年。古いオルガンが売却されたのは1426年のこと。
・ 音域は4オクターブ(現代と変わらない)。600本のパイプがあった。
・ このオルガンはおよそ300年も使われた(講師補:1470年代に改造の記録があるが、おそらく当初はピタゴラス音律で調律されていたのが、調律法を変えたということかもしれない)。1730年台に第3世代のオルガンが設置されるまで活躍。クープランやラモーの時代までゴシックオルガンがずっとあったことになる。
・ オルガニストにはいろんな人が就いた。楽器のメンテが得意な人、機械の知識が豊富な人、医学士、典礼劇の作者、参事会員などなど。オルガニストのルノーはポリフォニーの重要な歌手だったので、二つの役割を同時には担えず新たなオルガニストを雇うことになった、という記録が残っている。
・ オルガンのレパートリーについて証言する音楽史上最古の文章が残されている。151頁の1415年のアンリ・ド・サックスの記事だ。23の大祝祭日のミサにオルガンを演奏。キリエ、グローリア、プローザ、サンクトゥス、アニュス・デイ。
・ 17世紀以前は、日曜日のミサはオルガンなし。また、国王をたたえるテ・デウムでもオルガンは演奏された。賛歌やマニフィカートでは、奇数節をオルガン、偶数節を聖歌隊が歌う。オルガンは正しい音を示し、聖歌隊を支える役割を担っていた。
・ 1447年、聖ニコラスの日、新しい司教を選ぶとき、ミサが始まっても選挙がおわらず、グローリアの途中で、新司教が入ってきたときに、なんとテ・デウムを歌い始めたが、声が小さかったので、オルガンがすかさずサポートして支えた。そして、またグローリアに戻って、急ぎミサを終えたという逸話が残っている。
・ オルガンは聖歌の出だしの音を弾いたり、旋律を一緒に弾いたりしていた。

(K.I.)
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by fonsfloris-k | 2012-05-12 10:00 | 講座レポート