3月3日 音楽史講読「ノートルダムの音楽」 (東京)
2012年度第1回3月3日 10時〜12時

2011年度に学んだことをざっと振り返った上で、今回はp.109 The night service: festal Matins and Lauds から始め、p.132 第2行目までを読んだ。

 【2011年度に学んだことの振り返り】
 I Introduction
現在のノートルダム寺院は3代目の建物で、p.8には、チャペルの名前の表が載っており、左は中世の名前、右が現代の名前である。P.9のjube (ジュベ)石造りのスクリーンのことで、その奥が内陣で、教会の中にもう一つ教会があるようなイメージ。内陣には布や旗などが飾られていた。現在はジュベはない。聖職者たち The clergyは、チャプターハウスに共同体の規則に従って住んでいた。(p.18)
 p.23の地図では、下部の横長く描かれているのがノートルダム寺院で、他に4つのチャペル(教会)が描かれている。
 p.28のシテ島 Il de la Cite の地図にあるように、The cloister / cloître と呼ばれる居住区内で聖職者たちは共同生活を行い、議論や教育もここで行われた。参事会員 canonたちはその中に家とプライベートなチャペルを持っていた。

II Chant and liturgy 聖歌と典礼
 フランス固有のガリア典礼は、8・9世紀シャルル大帝の頃、徐々に廃止されローマ典礼に取って代わられていった。その特徴のひとつは、メリスマが多く、豊かに言葉を引き延ばすところに現れる。(例:P.55カプトの原曲)
 教会暦も発達し、有力者がそれぞれ聖人を祝い、聖遺物(p.69)が奉納されるたびに祝日を作り、カンタベリーのトマスやアシジのフランチェスコなど新しい聖人も増えて、祝日の数が増えていった。P.74に祝日の一覧がある。duplex聖歌を復唱(リフレインをちゃんと歌う)する日が大祝日である。それぞれの祝日の歌以外にノルマのように挿入される曲もあった。
 Kyriale 通常唱(p.81)については、現在のように5つのセクションがまとまっていたわけではなく、いろいろな組み合わせを使いまわしていたが、12〜13世紀には何曜日にはどのキリエ、などのように徐々に固まり現在のようになってきた。
P.98〜99には、典礼をどのように進めるか、どこにどういう人が座っているかが描かれている。黒■は書見台で他の人は楽譜を見ていないことが分かる。1:首席司祭 4:カントール(首席歌手) 11:中心になって歌う人たち、先唱者に最初の音を伝える(のちにはオルガンで)。

【今年度】
The night service: festal matins and lauds( p.109)
 聖務日課のスタンダードは、朝課Matins=Matutinum、賛課Lauds=Laudes、1時課、3時課、6時課、9時課、晩課、終課、夜課である。
朝課は深夜に行われる。P.113にあるように、復活祭には最後に、キリストのよみがえりの情景を現したセクエンツィア(続唱:アレルヤ唱の後)を基にした典礼劇が行われた。<マリア:天の人よ、ナザレのイエスを探しています。天使:皆に伝えよ、よみがえりましたと。弟子たち:マリア言いなさい、何を見た? マリア:生きているキリストの墓を見ました。・・・> p.114<信じるに値するのはマリアの言葉、ユダヤの人ではない>の部分は、トリエント公会議後に削除され、現代の続唱にはない。次いで、キリストのよみがえりは私達には喜びであるから、感謝をこめてTe Deumテ・デウムを歌った。
*ここはみんなで歌いました。
*以前カペラで歌った典礼劇の楽譜にはト書も入っており、ヨハネは若いから先に墓に向かって走り、ペテロは後になどと書いてあったとのこと。
p.115 パリでは他と違っていた。普通はBenedicat vos omnipotens Deus…Deo grasias で終わるところを、これをとばしてLauds 賛課が続いた。
*2-3時間かかっていたかも。4月は寒いのに。
現代ではマリアのアンティフォナは1日の最後に歌うが、14世紀頃から復活祭とその1週間後の朝課-賛課にRegina caeliが加わった。それは年間へと広がった。土日にはSalve regina やAve reginaも加わった。
p.119新しい典礼が始まった。p.120 パリのミサ典書にある15世紀のご聖体行列の絵。楽譜はO salutaris hostia(「ああ、救いのホスチア」)の最初の旋律で続唱として歌われ、17世紀にはポリフォニーのモテットへと変わっていく。
p.121キリエはカントールかレクトールが歌い、グロリアは司式の神父が歌うがレクトールが加わりピッチを修正した。(*今と変わらない?)またグロリア・クレドはすべてのミサにあるわけではない。パリでprosaと呼ばれていた続唱は特別な日に歌われた。また16世紀後半ごろまでパリでのレクイエムには続唱はなかったが、望まれ、可能であればDies iraeが挿入された。グラドゥアーレやアレルヤはソリストが歌い、その間聖職者は座ってもよいがあとは立っていた。(もたれてもよい)

The feasts of the Late Middle Age (p.121)
中世後期に入ると、祝日は限りなくどんどん増えていった。随意ミサvotive Masses(特定のテーマに基づいたプライベートミサ)も多く行われた。中心になったのは聖母マリアである。美しい時祷書も多く作られ、典礼に付け加わっていった。14世紀には、賛課や晩課の最後に、土曜日、日曜日に、それぞれ決まったマリアの長いアンティフォナや続唱が歌われ日課の最高潮となった。北ヨーロッパでもマリア崇敬が高まっており、聖母被昇天なども祝われるようになっていた。そのなかではパリは中庸だったようだ。マリアの祝日は、お宿り・誕生・み告げ(告知)・訪問(エリザベト)・お清め・被昇天で6つ。後1つで7になるので、まとめの祝日が追加された。「ご奉献」Presentationがノートルダムで祝われたのは1471年11月21日だった。「エリザベト訪問」は1474年から。パリでは6月27日とした(7月2日はSt.Martialの祝日だったため)
p.124マリアの悲しみStabat mater dolorosa(続唱)は、1541年までにパリの写本に登場した。このころマリアの新しい3つの祝日以外に、ラザロなど他の聖人の日も組み込まれた。ラザロとヨセフは新約聖書やそのころ出版されたた伝承文学などによって良く知られ、晩課の賛歌で有名なPange lingua…は、ラザロのPange linguapreciosus Lazari commerciumやcontrafactum(替え歌)として再記述された。
p.127献堂式Dedicationは何処でも大切である。初代、ノートルダムⅡを経て、ノートルダムⅢは1182年に内陣が完成したが、他がまだであった。セレモニーに使うポリフォニーを含んだ『オルガヌム大曲集』には献堂式の曲が用意されていたが。15世紀末になっても聖堂は未完成だった。
p.128聖マルセルの聖遺物をノートルダムに持ってきた際、堂が完成するまでそこに置かれるべしとなっており、聖遺物の人気にあやかり返還しなくてもよいように屋根に穴があけられ、17世紀までそのままだった。そのようなわけで、ノートルダムではいまだに献堂式が行われていない。

Votive Masses(随意ミサ)
正規の典礼に含まれないが特別にしてもらうミサで、守護聖人、ご聖体、聖母、受難などがある。内陣ではなく周りの小聖堂で行われた。ミサを祝うことで、争いから逃れ、死んだ人を天国に近付け、終油の秘跡なしの人も安心して死を迎えることができる等とされ、そのことが盛んになったため、聖職者が多く必要になり、12世紀末には57人だった教会付き神父chaplainsは1539年には126名を数えるようになった。また司式の場所も主祭壇に周りの小聖堂を加えても収まらないので、各所で同時進行の形でミサが行われていた。1498年にカテドラルに教会暦の5つのサイクルを現したタピストリが奉納されたが、その5つは受難、復活,キリストの昇天、聖霊降臨、裁きの日である。
p.130は死者目録。主祭壇での日々のミサ、altar des ardents デザルダンの祭壇での新しく組み込まれた随意ミサ、ともに歌ミサであるがそれに加えて、5つの歌のないミサlow masses についても時間が決められ、パリの神父たちの責任となった。そして祝うべき8つものミサが、平日・祝日を問わず、さまざまな聖餐式、聖務日課の中で、時計のような正確さで行われなければならなかった。

(SWKM)
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by fonsfloris-k | 2012-03-03 10:00 | 講座レポート
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